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私の祈り6
父の廃業
2002年9月30日山形の小さな村でたった1軒の開業医が閉院した。47年の開業だった。
父は岩手医学専門学校(現在の岩手医大)の2回生で、当時最新の、耳鼻科の医局に入局した。 しかし、急を継げる戦争の為に、ほどなく北支(中国東北部)に軍医として派遣され、つかの間の帰国中に母と結婚し、すぐニューギニアに再派遣された。当時の結婚は、ほとんど子孫を残すための意味しかなかったであろう。しかし、私を含めて子供が生まれるのは、太平洋戦争が終結してからのことであった。
父がニューギニアに着いたのもほとんど偶然に近かったものと考えられ、補給もなく、父の上空を飛ぶ飛行機は皆連合軍のものだったという。戦闘といっても、連合軍からの一方的な攻撃で、負傷者、戦死者は相当なものであったらしい。おそらく、薬も(死の苦痛を一刻でも紛らわせるモルヒネすらも)医療器具も不十分な地獄絵図の中で、医者として父はどんな思いをしたのであろうか?
帰国してからの父の精神は相当参っていたことであろう。さらに、軍医には、帰国後医学教育の再教育が義務付けされていた。父は、故郷の山形から最も近い東北大学で再教育を受けることになった。戦後の混乱もあったのであろうが、東北大での父への無関心と岩手医専出身という差別は父には相当答えたそうだ。このときの屈辱感をちいさい時から聞かされていた私は、後に苦労してその東北大に入ることになるが、そのことを忘れられず、時に東北大出身者が他大学出身者に対してみせる高慢で傲慢な態度を見るたびに、父の覚えた屈辱がどんなにひどいものであるかを想い出すことになった。
父はまた、出生のときから、父が胎内に居る時にその父親が事故で亡くなるという悲劇を体験し、また母子家庭のこともあり、母親が多くの心無い人から財産を騙し取られるのをみて育った。
そのような、幼児からの特異な経験と7年間という長期の戦争体験という異常な経験からか、心に傷を負っていたのであろう。父の行動と言動は変わっていた。そのような父の特殊な生い立ち、体験、性格のためもあるかもしれない。47年という長期の地域医療にもかかわらず、住民からの感謝の言葉は無かったという。
しかし、私の知っている父はどんなに真夜中でも往診をし、深い雪に閉ざされて道も無いところを自分で雪踏みをして道を雪の上に作りながら往診に行く父であった。何度か夜中の往診の時は、主治医が酒酔いのため往診を患者さんに断った後のこともあった。翌日、寝不足で診療中の父の元に酒酔って往診しなかった主治医から電話があり、父が激昂していたことがあった。往診のときの父の処置に対しての文句を主治医から言われたためであった。
そのような中で、息子2人を医者に育て、娘を嫁にやり、父にはお金とは全く縁の無い生活であった。
さすがに、廃業とは、身に応えたのであろう。9月30日に父は倒れて一時意識を失ったと後で聞いた。
父の後は継がなかったが、1開業医である私には今の開業の困難さ、苦労、大変さが身に染みて解る。
父には、89歳の現在まで苦労して生きてきて開業医を続け、出来の悪い私を医者にしてくれた恩をこころから感謝している。また、父を支え、苦労の連続だった79歳の母にも心から感謝している。
どうか、これからはゆっくり休んで健康を大切にし、自分の為に時間を使ってほしいと思う。
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