高橋是清の祈り

 私の半生は、すでに人の知る通りであって、多くは自分の不明から、いたずらに無用の波瀾をかさねてきたわけであるが、しかしその間、ただわずかに誇りうるものがあるとすれば、それは、いかなる場合に処しても、絶対に自己本位に行動しなかったという一事である。
 子どもの時から今まで、一貫して、どんなにつまらない仕事をあてがわれた時にも、その仕事を本位として決して自分に重きを置かなかった。だから世間に対し、人に対し、あるいは仕事に対しても、いまだに一度も不平を抱いたことがない。またこれと同様に、あるいは他人から見てはうらやましがられるような境遇にいる時でも、自分に重きを置くことをしなかったため、特別によろこぶ気も起こらない。 (中略) 私も今日までには、ずいぶんひどく困った境遇に陥ったことも一度や二度ならずあるのだが、しかも、食うに困るから助けて下さいと、人に頼みにいったことは一度もない。
 いかなる場合でも、何か食うだけの仕事はかならず授かるものである。その授かった仕事が何であろうと、常にそれに満足して一生懸命にやるなら、衣食は足りるのだ。ところが多くの人は、現在困っていながら、こんな仕事ではだめだとか、あんな仕事がほしいとかいっているから、いよいよ困るような破目に落ちてゆくのである。
 何か仕事がなければ、到底独立してゆくことのできない者は、仕事を本位とするより仕方がないではないか。そして仕事を本位とする以上は、その仕事の性質がどんなものであろうとも、ただ一心になってそれを大切に努むるばかりである。こうすればどこにも不平の起こるべき原因がない。よい地位にあがったからといって欣喜雀躍するはずもなければ、またその地位がさがったからといって、失望落胆することもない。すべて己れを本位とすればこそ、不平も起こり失望も起こるのだ

津本 陽 : 著 :「生を踏んで恐れず〜高橋是清の生涯」 : 幻冬社

あとがき---是清の魅力

 大正末期から昭和初期にかけて、世界各国にファシズム擡頭(たいとう)の機運が生じた。景気停滞のなかで各国が立ちなおるための突破口を模索していた。
 その頃、日本の国政を担当する政治家たちはあいついでテロに倒れた。だがひとりが倒れると、後継者が死を覚悟のうえで政務をとり、命を落とした。
 日本の超エリートたちであった。彼らが、死を賭して守ろうとした立憲政治に私は興味をもった。現代の政治家は、身を挺して主義主張をつらぬこうとする情熱を持っているのだろうか。クールな時代になったといえば、それまでである。
 しかし、おなじ民族、おなじ日本の男である。かねてから私は近代政治や制度の生成に興味を持っていた。とりわけ六十年前の政治家たちの心境に興味を持ったのは、その捨て身の情熱の根源を探りたかったためである。
 彼らのうちから高橋是清を選び、その生涯の足跡を追ってゆくと、実に魅力ある人物の輪郭が浮きあがってきた。
 是清は、幕府絵師と女中とのあいだに生まれた私生児で、仙台藩足軽の高橋家へ養子に貰われてきた人である。
 だが、彼は性来の楽天家で幼時のちいさな体験によって、自分が幸運児であると思いこんでいる。
 横浜で英学修業した少年期は、酒を飲み、博打を打ち、放埓な生活を送る。アメリカへ留学すると、悪辣なアメリカ人にだまされ、ホームステイしていたと思っていたところ、その家に奴隷に売られていた。
 だが、十四、五歳の是清は運命に正面から立ちむかい、不正をおこなったアメリカ人に自己の立場を堂々と主張し、自由の身になる。そのあいだ、奴隷の卑屈な感情をいささかも持たず、仙台藩上士の息子たちが正規のカレッジで修得したものよりも、はるかに高度な語学力を身につける。
 是清は、自分の置かれた環境をただしく認識し、とるべき最良の方法を選択する鋭敏な能力を備えていた。
 帰朝後は十六歳で大学南校三等教授手伝いとなるが、ありあまる活動力にまかせ、生徒の借金二百五十両の肩がわりをするうち芸者遊びに熱中し、南校を辞職し、美妓に養われるようになる。
 だが、窮地に陥るとかならず友人が助力にあらわれる。株屋、牧場経営、翻訳業、ペルー銀山経営。さまざまな職業を転々として、日銀副総裁の地位に達したのは、彼の才を求める声が、常に各界にあったためである。
 是清は徒党を組むことを嫌い、他人に興味を持たないが、他人は彼を必要とした。彼はどんな職業に就いても、異才を発揮する。あらたな職場について、状況をひととおり見渡せば、改革すべき点、増強すべき部門がすべて分る。その職場で長年はたらく先輩たちがまったく気づかない陋習(ろうしゅう)を、是清の鋭敏な触覚はたちまちとらえるのである。
 経済の専門家でもない是清が、銀行界に入ると一国の財政を担う大きな存在に成長した。
 日露戦争の戦費十三億余の莫大な公債は、是清がロンドン、アメリカ、ドイツ、フランス市場で起債したものである。元気のいい少年が、大人に喧嘩を売るようなものだといわれた日露戦争の戦費を外国で借りるのは、是清でなければできない至難の業であった。是清は最悪の状況においても失望落胆せず、外国人に堂々と事情を説く。
 日本の弱点を指摘する者があれば、それが事実に反することを説き、一歩も引かない。生き馬の眼を抜くロンドン金融市場の資本家、経済紙記者が是清に全幅の信頼を置くようになる。
 是清は彼らを信頼させるために、こびへつらい、懇願するなど卑屈な態度はいっさいとらず、日本国の金融代表者として節度をもってふるまい、イギリス国王に謁見し、その活躍を嘉賞されるほどの信用を得た。
 生涯に、総理大臣、農商務大臣、商工大臣各一回、大蔵大臣七回を歴任したのは、日本国が彼の才能を求めていたためである。
 是清はいっていた。
 「一足す一が二、二足す二が四だと思いこんでいる秀才には、生きた財政は分からないものだよ」
 是清は常に積極財政で、日本の景気を立て直してきた。
 日銀引受の国債を発行し、それによって得た資金で政府が物資を買う。市中に資金が豊富になると景気が上向き、民間に国債が消化されてゆくという、積極財政の仕組みは、成功するかに見えたが、軍部予算の急膨張によってバランスを失い、是清は二・二六事件によって倒された。
 『生を踏んで恐れず』との言葉がある。大正十三年(一九二四)一月、爵位をなげうって衆院選に立候補した際に残した述懐と伝えられているが、まさにこうした言葉が彼の人生を表現している。
 是清の葬儀は事件から一ヶ月遅れ、築地本願寺でおこなわれた。やや気が抜けた感があったが、一般告別式は民衆がぐるりと取り囲み、式は一時間延長された。真の国士というべき生涯は、男の魅力に満ちたものであった。

津本陽 : 著 : 「生を踏んで恐れず〜高橋是清の生涯」 : 幻冬社

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