榎本保郎の祈りU

キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
     (コリント人への第二の手紙12・9)

 パウロ、彼は主の直弟子ではない、使途ではないとの攻撃、それは彼に終始つきまとった。そのために彼はついに、みずからの霊的体験を語ったのである。
 が、彼はその体験----第三の天、パラダイスに引き上げられたのだから、もっと誇ってもいいのに、自分の弱さ以外に誇ることはすまいと言う。なぜだろうか。どうして、弱さがそんなに誇るべきものだったのだろうか。
 七節以下に「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた」とある。このとげが何であったかはともかく、彼はこのとげが取り除かれるようにと何度も祈ったのである。ところがそれに対するお答えは「わたしの恵はあなたに対して十分である」だったのである。これもへんなものである。せっかくパウロが肉体の苦痛からのがれられるようにと必死で祈ったのに、その祈りが聞き入れられないばかりか、弱いのがいいのだと言われるのだから。
 しかし、私たちの生涯の最終目標は、この主の言葉に要約されるのである。体が元気でこんな事業ができ、あんなわざができたのではなく、この私の中に、どのように神の力があらわれたかということなのである。病気に対しても、私たちはいやされることが最終の目的になってしまうと、パウロに与えられたこの主の御言葉は理解できない。病のいやしは懸命に祈らねばならない。一心に祈らねばならない。しかし、何がなんでもいやしてもらわなければという熱心さを、神は喜ばれはしないのだ。イザヤ書の中にも、主がイスラエルの民の犠牲を受け入れられない個所があるのはなぜかを、考えてみるべきではないのか。
 なぜなら、私たちの信仰生活は地上の満足にあるのではなく、祈りの中で主の御心を知り、そして従っていくことにあるからである。だから、私たちにとって、健康、家庭の無事、事業の繁栄などの地上のことが大事なのではない。ある人は与えられある人は与えられないだろうが、それよりも天上の神のご意志がたいせつなのである。
「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ1・21)。先ごろのお葬式でも話したように、「与え」は私たちの出生、「取る」は私たちの死去である。生まれたら喜び、死んだら泣き悲しむのは人間の自然の姿である。だが、クリスチャンは、この三たび繰り返される「主が」を見落としてはならない。人間の世界では喜怒哀楽いろいろあるだろう。が、それが、ほんとうに主の御心でなされたとはっきりしたならば、そこには、主の御名をあがめる以外には何も残らないのである。この主の御名をたたえられる者になってこそ、はじめて主の恵みとは何かがわかるのである。
「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。神の力が完全にあらわれることを信仰の目的とするならば、病気、これまた感謝、弱いこと、すべてにまさる感謝である。先日、一姉妹の誕生日で山辺の田舎の家を訪問した。村にだれ一人信者はおらず、たった一人きりの信仰生活をつづけ、古い因習の中でずっと育った彼女は、家族の看病のために生まれてきたようなもので、自分の青春のいっさいをおばあさん、お父さん、今はお母さんの看病に費やし、礼拝出席もままならぬ生活を余儀なくされたのである。彼女も「私も女です。きれいな服も着たい。町へ遊びにも、買い物にも行きたい。でも、それもできないまま、着飾った友達をみると、つい寂しくなったり、悲しくなったりもします。また、家族の無理解のときなど、台所で涙をそっとぬぐいます。そして、『神様、神様』とイエス様に泣きながらすがるのです。すると、神様は必ずS先生を送ってくださったリ、励ましの手紙が来たり、教会員のかたが見えたりするのです。きょうも台所で洗い物ををしながらつい涙を流して『神様、神様』と呼んでいたら、夢かと思う先生が来てくださって・・・・。神様はほんとうに私を愛してくださっているのですね」と、泣き笑いしながら語ったのである。私もまた、涙を知らない者は神を知らないということを、あらためて示されたのである。
 人間にとって、涙を流す人生はできるだけ避けて通り、明るい、光り輝くところだけで生活したいと願うのは人情かもしれない。が、そこにだけ目が向けられては、肝心の神へ目が向けられるだろうか。弱さだけ見ると、それは哀れだろう。しかし、弱いところが神の力のあらわれるところならば、これは感謝すべきことなのだ。私たちの信仰の視点がいまどこにあるかがわからないと、キリスト教もまた御利益宗教になりかねないのである。
 水野源三さんの詩集の題名をつけるとき、『わが恵み汝に足れり』という題を出版社にお願いした。この人は、寝たきりで口もきけない、私たちの想像を絶する生活であるのに、彼の生み出す詩にはほんのわずかな不安もなく、実に深い神の慰めを受けている。私たちにはとうてい生み出せない喜びと恵みが感じられるのである。
 パウロに主の言葉が示されたとき、喜んで自分の弱さを誇った。それはキリストの力が、彼に宿るためであった。だからこそ、侮辱、危機・・・・といったものに甘んじたのである。神との出会いは、私たちが全く弱くなりきれたとき、すなわち、神を受け入れるよりほかに私に何も残っていないとき、はじめて可能なのである。クリスマスはローマの暦(こよみ)では冬至である。夜のいちばん長い日である。しかし、それは同時に、神の恵みの日となったのである。

榎本保郎 : 著 : 新約聖書一日一章 : 主婦の友社

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