マルティン・ルターの祈りU

 ガリラヤのナザレからベツレヘムまでは、どうしてもまる一日以上はかかったでしょう。ベツレヘムはエルサレムよりもっと遠いのですから。ヨセフは考えました。「ベツレヘムについたら、親類もたくさんいることだ。必要なものはのこらず借りうけることができるだろう」と、それはあまい考えでした!
 結婚して一年にしかならない、若い花嫁がナザレの自分の家で出産することができずに、身重のからだで三日も旅をしなければならなかったのは、たいへんなことでした。けれども目的地に着いても泊まる場所がなかったのは、もっとこまったことでした。宿屋は満員でした。この身重の婦人にへやを提供しようという人間は一人もいなかったのです。マリアは牛小屋に行って、そこで世界の創造主を出産しました。誰もかの女のためにへやをあけてくれなかったからです。
 「ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリアは月満ちて、初子(ういご)を産み、布にくるんで、かいばおけの中に寝かせた」。
 福音書によれば、ベツレヘムに着いた時、およそいやしい、見る影もない姿でした。あらゆる人に譲らなければならず、けっきょく、牛小屋をあてがわれてしまったのです。多くの強盗たちが、宿屋で貴族のようにおさまりかえっているというのに。かれらは、神が牛小屋において大いなるみわざをなしたまいつつあることに心づきませんでした。金にあかして飲み食いし、着飾っているかれらを、神はむなしいままにすておかれました。この慰め、この宝はかれらから隠されていたのでした。もしもこの光が見られなかったとしたら、ベツレヘムの夜はどんなに暗いものだったでしょうか。このようにして神は、この世とそのもちもの、またそのわざは、神のみ前においてはまったく重きをなさないということを示しておいでになるのです。そしてこの世はまた、神とそのみわざについてはなにも知らず、なにも考えないということを明らかにしたのでした。
 ヨセフは自分にできるせいいっぱいのことをしました。たぶん宿の女中に水その他をもって来てくれるよう頼んだでしょう。けれども、誰が手つだいに来てくれたなどということはどこにも書かれていません。若い産婦が牛小屋で寝ていると聞いても、それを心にとめる者はいなかったのでした。恥を知りなさい、おお、ベツレヘムよ!そんな宿屋は硫黄の火で焼かれてしまえばよかったのです。たとえマリアがこじき女や夫のない女であったにしても、場所が場所とて、誰だってよろこんで手を貸さねばならないところだったのですから。
 みなさんがたのなかには、心ひそかにこう考える人がたくさんいるでしょう。「ああ、わたしがその場所に居合わせたらなあ!よろこんで御用をつとめただろうに!せんたくもしただろう、お守りもしただろう、そして羊かいといっしょに、大喜びでかいばおけの中のイエスさまにお目にかかっただろうに」と。そうでしょうとも!あなたがたが今そう言うのは、キリストがどんなに偉大な方であるかを知っているからです。もしもそのとき、その場にいあわせたなら、あなたがたにしたところで、ベツレヘムの人々と五十歩百歩だったにちがいありません。なんと子どもじみたばかげたことを考えるのです?それなら、なぜ今すぐそうしないのですか?キリストはあなたの隣人のうちにいましたもうのです。あなたはかれにつかえなくてはなりません。苦しみの中にある隣人にすることは、主御自身にすることなのです。

マルティン・ルター : 著 : 「クリスマスブック」 : 新教出版社

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