セネカの祈り
マルキアへの慰め
「そんなことが起ころうとは、わたしはぜんぜん思っていませんでした」とあなたは言うのですか。起こりうるとあなたが知っていること、多くの人に起こったのをあなたが見ていることが、自分には起こらないとでも思っていらしたのですか?芝居の科白(せりふ)ですが、こんな有名な詩句があります。
誰かに起こりうることは、誰にでも起こりうるのだ。 -----ブリリウス・シルス
あの人が子どもを失ったのなら、あなたも子供を失いうるのです。あの人が有罪を宣告されたのなら、あなたの無実も危険に曝されているのです。いつわが身に襲いかかるかもしれぬ災厄を、実際にそれが来るまでは来るものと予想しないでいる。この思い誤りがわれわれを欺き、われわれの力を奪うのです。災厄が現に来たとき、災厄からその暴力を奪い去ることのできるのは、そういうことは将来必ず起こりうるとふだんから予測していた人だけです。
マルキア、われわれのまわりに外面だけ輝いているものはすべて----子供でも、官職でも、富でも、大広間でも、閉め出された依頼者(クライアント)たちで溢れかえる控えの間でも、有名な家名でも、高貴な自分の美しい夫人でも、そのほか不確かな束の間の偶然に依存するものはみな----その輝きはあなたのものでなく、よそからの借り物なのです。そのうちの何一つとして贈り物としてあなたに与えられたものはありません。寄せ集めの、やがては持ち主に返さねばならぬものたちによって、人生の舞台は飾られているのです。そのあるものはその日のうちに、またあるものは次の日に返さねばなりません。終わりまで手元に残るのは僅かなものです。
だからわれわれが、自分の所有物の中に座りこんでいるかのように思いこむ理由はまったくないのです。これらのものはみな借り物として預かっているだけです。使用することも利用することもわれわれには任されていますが、その借用期限を決めるのはこれらのものの贈り主です。ですからわれわれは、未定のある時まで貸し与えられているものも、いつでも要求され次第ただちに不平を言わずに返す心の用意をしておかねばなりません。債権者と争いを起こすのは、最低の責務者の仕業です。
ですからわれわれは、----出生の掟によってわれわれより長生きしてもらいたいと願っている者も、彼ら自身の正当な願望によってわれわれより先に逝きたいと願っている者も----その誰をも、その長生きを、いや、ほんの僅かの生さえ保証されていない者として愛さねばならないのです。ですからわれわれはときどきわれとわが胸に問うて、すべての者はまもなく別れる者である、いやもうじきにも別れる者であると覚悟して愛すべきだ、ということを思い出さねばなりません。運命によって与えられたものはいかなるものでも、それを保証する者なしとして所有すべきなのです。
「マルキアへの慰め」9−5〜10―3
死すべきものとして生まれ
ならば、個々のこと一つ一つに涙したところでそれが何になりますか?涙すべきものがあるとしたら、それは人生全体です。あなたが古いごたごたを片付け終える前に、もう新しいごたごたが次々と押し寄せてきます。それゆえにあなたがたが際限もなく嘆くことは、とくに抑制されねばならず、人間は心の力を多くの苦痛へと分かたなければならぬのです。
であるのに、そういうあなたのものでありまた一般的でもある状況を忘れるなんてことが、どうして起こるのでしょう?死すべき者としてあなたは生まれ、死すべき者をあなたは産んだのです。あなたが、いくつもの病の種子(たね)を宿した脆くて締まりのない肉体を持つあなた自身が、そのような弱い素材の中に、確かなるもの、永遠なるものを宿そうとでも望んだのですか?
あなたの息子は亡くなりました。ということはすなわち、彼はあの目的地へ行ったのです。あなたがあなたの子供より幸福だと思っている人々みながそこへと急いでいるところへ。そこへこそ彼らもみな行くのです。いまフォーラムで訴訟を争っている者も、劇場で見物している者も、神殿で祷っている者も、あの群集全員が、不揃いな足並みで、しかし必ず。あなたが愛する人も、あなたが軽蔑する人も、ひとしく一握りの灰になるのです。
そのことをこそ、デルフォイの神託といわれるあの言葉「汝自分を知れ」は言っているのです。人間とは一体何か?任意の揺さぶり、任意の突っころばしで壊れてしまう容器です。あなたを吹きとばすのに大きな嵐など必要ありません。どこへ衝突してもあなたはバラバラになるでしょう。人間とは一体なんですか?弱い、壊れやすい肉体です。裸で、生まれつき無防備で、他のものの助けを必要とする、運命のあらゆる虐待のままに委ねられた存在です。
「マルキアへの慰め」10−7〜11−3
子供を育てたこと自体が
あなたの苦しみは、もしそれになんらかの意味があるとしたら、それはあなた御自身の不幸に関わっているのですか、それとも亡くなった方に関わっているのですか?息子を失ったことであなたの心を動かしているのは、彼から何の喜びも受けなかったということですか、それとも、もし彼がもっと長く生きていたら、彼からもっと大きな喜びをえられたろうにということですか?もしあなたが彼から何の喜びも得ていないと言われるなら、あなたは失ったことをもっと楽に堪えられたでしょう。なぜといって人間は、自分が何の喜びも楽しみも感じないものを慕ったりしないからです。
しかし、もしあなたが大きな喜びを得ていたとお認めになるなら、それが奪いとられたことをあなたは嘆くべきではなく、すでにそれを得ていることを感謝しなければなりません。なぜなら、息子を育てること自体が、あなたの御苦労に対する大変な報酬だからです。
(途中省略)
仮に彼の熱心な勉強ぶりがあなたに何ももたらさず、彼の誠実さが目につかず、彼の賢さがあなたに何も語りかけなかったとしても----あなたが彼を息子に持ったこと、彼を愛したこと、まさにそのこと自体が報酬なのです。
「マルキアへの慰め」12より
中野孝次 : 著 : 「ローマ人の哲人 セネカの言葉」 : 岩波書店
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