千玄室の祈り
和と思いやりの心----茶道文化の諸相
二十一世紀、果たして日本の姿がどのようになっているだろうかと想像してみて下さい。私は、政治、経済、文化という根本的な問題から考えますと、このままの調子で進んだならば、日本がふと振り返った時、世界中でただ一人取り残されているのではないかと思うことがあります。今日の日本の状況、そして過去、とりわけ戦後から五十数年間の時世の変遷、事態の変化を考えてみると、憂慮を禁じ得ません。
太平洋戦争後、アメリカ社会を第一と考えて追随してきた我が国は、経済発展で世界中が目を見張るほどであったのと同様、人心の荒廃と精神的な空洞化においても世界に注目され、「かつて日本という国があった」と中国の要人にされるほどになり下がっています。我が子でさえも育てられない夫婦や無軌道な暴走をくり返す若者達の群れをみていると、戦後五十年の教育のひずみがそのまま表面にふき上がってきたと思わざるを得ません。そのことに危機感を持った文部科学省は、今頃になって愛国心を育てる教育を、と言い出したようですが。五十年かかってひずんだ社会は、立て直すのにそれ以上の時間がかかると思わなければなりません。私は戦前の日本の方がよかったという回顧主義者ではありませんが、軍国主義という面を除けば、少なくとも暖かい人間関係だけは大切にされていたのではないでしょうか。NHKのアーカイブ番組で向田邦子さんの作品が何度も放送されたり、正月番組に取り上げられたりするのも、単なる回顧趣味ではなく、日本人が育ててきた家族関係をもう一度考え直してはいかがですかという放送人の良識の問いかけだと考えられます。今後の教育が果たさなければならないのは、まず第一に暖かい人間関係が現出する社会となる努力をすることです。そのためには、一番の人間をつくるのではなく、only
one(ただ一人)の人間を育てる教育を行うことです。東大や京大に入ることが目的であったために一番になる教育を行ってきたのが二十世紀であったとするならば、今後は「これができるのは一人だけだ」というonly
oneの人間を育てる教育が大切だというのです。
ところで、戦争の世紀、科学の世紀であった二十世紀に対し、環境の世紀、文化の世紀として人間性の回復を目指した二十一世紀の日本にするうえで、茶道が果たせる役割とは一体何であるかを、ここで考えてみたいと思います。
”日常茶飯事”という言葉があるくらいに日本人の生活の中には、お茶を飲むという行為が昔から定着しています。私自身は”茶の家”に生まれ育って今日まで来ましたが、私は千利休以来の四百年以上の伝統を背負っていることになり、茶の葉の緑色になぞらえて”私の血は緑の血である”と冗談に申します。
私にとって緑は永遠の色です。緑色は自然の色です。茶の道は自然と絶えず一体の関係にあり、茶を学ぶということは、言い換えると自然を学ぶことに他なりません。
一見、混沌としているかのように見える自然も、厳然としたルールに基づいて存在しています。同様に、茶の世界にもルールがあります。点前(てまえ)手続がそうです。「複雑な茶の点前を学んで、一体何になるのか」とよく質問されますが、スポーツに限らずあらゆるものにルールがあり、はじめて存在が可能になります。人間社会もこのルールの外にあることはできません。
たとえば、ある家に家族や同居人がふえて、その人たちがお互いに他人の迷惑をかえりみず、自分だけが楽をしたいと、我儘(わがまま)を押し通してきたとします。すると、どんなに立派な家であってもその生活は、まったくみるに耐えないほどにみすぼらしいものとなるにちがいありません。無秩序、混雑、そして正義の通じない、人情の薄い人間生活は、成り立っていかなくなるということです。人間は”ニンゲン”であると同時に”ジンカン”ともいいます。人の字は一人をあらわしてはいません。人と人がお互いに寄り添い、助け合って生きていく姿が”人”の字となって表現されているのです。だから”人間”とは、人と人の間に生じるコミュニケーション、暖かい心の通い合いがあってこそ、社会のルールが形成されていくのです。茶道の点前とは、人間社会のルールを一碗の茶を通して相手に差し上げる中に凝縮したものにほかなりません。手のぬくもりが相手に通じることを茶道では「和敬清寂」の精神で表現しております。”和”は平和の和、調和です。聖徳太子が『十七条憲法』の冒頭に「以和為貴」(和ヲ以ッテ貴シト為ス)と定めたところの”和”です。茶道では「もう一服いかがですか」と言い、「お先に頂戴いたします」と言って隣りの人に挨拶をいたしますが、これがルールであり、和やかさをかもし出すための行為です。
”敬”は尊敬の敬であり、互いに敬い合うことです。私はそれを「仕(つか)え合い」、即ち「仕合(しあわせ)」(幸)と解しています。それは人に対して思いやりを深くすることです。現代の日本人は、人に対する思いやり、人を大切にするというような、昔から大切にしてきたことを忘れ去ってしまったのではないでしょうか。テレビのコマーシャルではありませんが、”亭主元気で留守がいい”といわれるのが現在の風潮です。何とも空寂しくなることではありませんか。第二次世界大戦前の父権は磐石なものでありました。ところが昭和四十年代以降の経済成長とともに父親の権利は、風前の灯のようになってしまっています。子供を叱れない父親、反抗できない乳幼児に暴力をふるう父親像が通り相場になっているのではないでしょうか。お互いが自分のことばかりに気をとられて、押し合いへし合いしているのが日本の現状ではないでしょうか。交通機関に限らず、すべてが少しでも前へ進みたいとひしめき合う姿は、どうみても誉められた風景ではありません。最近になってようやく「スローライフ」ということがいわれるようになってきましたが、茶道とはまさに「スローライフ」を具現化した文化です。それこそ日本人の心の奥底に潜んでいる善意のこころ、人を思いやるこころを回復し、よりよい社会を取り戻す源泉になるのではないでしょうか。
”清”は清潔の清です。現代人はあらゆる面において清潔感を大事にする生活を目指しますが、心を清らかにするという”浄”はつい忘れがちです。茶道の”清”とは心の中をピューリファイすることにほかなりません。
”寂”は寂然不動の寂です。静寂も大切なことですが、茶道でいう”静寂”は心の中が浄(きよ)らかに、そして何物にも動じない心を育てることにほかなりません。
そうした中で、私は茶道の本質は”和”の心だと考えています。ところが生活様式の洋風化に伴い、生活の在り方が「和魂洋才」でなく逆転してしまいました。しかし、たとえ生活様式は「洋和折衷」どころか「洋和才」になってしまっても、古代から受け継がれてきた”和”の心は他に置き換えてはいけないと考えています。和とは心と心を結ぶ人間同士の正しいコミュニケーションの原点であると同時に、人間愛そのものでもあります。それが茶道の目指している永遠の課題であると言ってよいのではないでしょうか。
私は戦後の五十数年間に、二百数十回にわたり天与の「茶道」を以って、”和の世界”の布教を一貫して努めてまいりました。「一碗からピースフルネス」が私の理念であり、茶道の進むべき姿だと信じています。一碗のお茶によって「和敬清寂」の精神を高揚させ、世界平和を実現したいと念じています。茶の心における「思いやり」から心の時代を切り開いていこう、と願うのみです。
千玄室 : 著 : 「和と思いやりの心----茶道文化の諸相」 : 文芸春秋2004年9月臨時増刊号「和の心 日本の美」 : 文芸春秋社
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