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新渡戸稲造の祈り 太田愛人:著:「新渡戸稲造『武士道』の根と花 新渡戸稲造は『武士道』第一章の冒頭で、武士道を桜の花にたとえている。しかも腊葉中に保存されない、力と美の活ける対象としての花である。花が咲くためには隠れた根から養分を吸い、根が幹を支え、その先端の枝が必要である。『武士道』を読んだ人は例外なく内外の文献の博引傍証の妙、歴史の造詣の深さに驚かされる。そして著者自身の出目へと関心が向けられるだろう。英文で十九世紀の終わりに、静養先のカリフォルニアで記され、身の回りに参考文献を山積みにすることなく、知日の友人である女性アンナ・ハーツホンの意見を聴きつつ日本の魂を日本人でなく国外の人々に説明しようと試みたのである。 『武士道』の英文や訳文を読んで大隈重信や伊藤博文が驚き、人々に勧めた。その影響力は明治初期の中村正直の『西国立志編』にも匹敵する広さををもっていた。一方、新渡戸は明治政府を牛耳る人々よりも西欧を知っていた日本人からの批評を尊重していた。一つの挿話が『植村正久と其の時代』の第一巻に記されている。新渡戸の四歳年長の植村は、富士見町教会牧師で「福音新報」の発行者として健筆をふるっていた。父は旗本千五百石とりの高級武士であったが、維新で禄を失い、子は千葉県で豚を飼う生活もした。横浜に出て英学を学んでいるうちにキリスト者になった。いわば時の敗者を体験した人である。 植村は福音新報で逸早く『武士道』を紹介し「此の種類の英文著書中、体裁の最も善く、整へるものにて、文学上の価値もまた見るべきものなり」と書いた。また、「英文武士道が余りに弁護士的の態度に出たことは余輩の聊か遺憾ととするところなり。然れども余輩は新渡戸氏に於て熱心にして雄弁なる弁護士を得たることを喜ぶ。若しラフカデオ・ヘルン氏をして外国の援軍たらしめば、新渡戸氏の如きは精鋭なる日本の新兵、以って大敵を砕くに足るベし。是れ余輩が『武士道』に於て多とする一言なり」。植村の批判は「元禄文学などに一つの題目となれる最も忌はしき武士の猥褻は、余りに詩的に武士を謳歌する者をして調子に乗らざらしむる事の歯止めなるべし。」となし、結語として「然れども新渡戸稲造氏は漫に武士道に心酔するものにあらず。氏は其の将来に維持す可らざるを熟知せり。彼は丁寧に武士道を葬るべきの時到れりと明言せり。武士道を葬りて其の相続を為すべきものは誰ぞや。新渡戸氏は基督教即ち是れなると言はる。是れ甚だ適当なる結論なり。余輩は武士道の精神は基督教に依りて保全せらるべきを疑わず。稿を改めて之を論ずべし。」(明治34年3月福音新報)と英文武士道を紹介した。 この植村の批判に対して新渡戸は共感して語っている。「自分は日本の武士道を書いたが、之に対して英文と邦文の批評が沢山あった。けれどもそのうちで植村先生の批評こそ最も自分の意を得たものである」。ある日、後藤新平夫人の招きで植村が訪ねた時、新渡戸、後藤新平、長尾半平が同席していた。席上、話が展開し、植村が書いた例話がとりあげられた。それは「英国人などが其の家に日本人を招きて其の隅々無遠慮に開放して、何恐れ気ななきに引き替え、日本人は其の家を斯の如き暴露して忌み憚る所なきこと能はざるなり」という比較論である。座談では更に発展して「日本人の所に客に行くと床の間以外に客に来られると困る。それと同様に新渡戸君の武士道は床の間付きの部屋を外国人に紹介したものだ。・・・・どうです、それでは日本の台所を書いては」と笑いをもって終わっていた。そのやりとりを聞いていた後藤新平が「一体、表より裏のいいのは羽織よりないですからね」と言って一座大笑いになった。珍しい知らざれる『武士道』評だ。 『武士道』が巷間に流布し、その紹介が盛んになる昨今、原著者の意図から離れ、その志と乖離する論説が増えてきている。非戦の書の表紙に武士の真向唐竹割りの絵をのせた『武士道』訳が書店に並ぶ時代である。貯えられた徳目が次々に失われていく軌跡を日本現代史に読みとることができよう。そして新渡戸の最晩年に「日本を滅すのは共産主義と軍閥である。」と語らせ、亡命者の如くカナダに赴き、客死した悲劇を回想させる。 巻末に、武士道のあとに平民道の到来を期待した新渡戸の意図に反し、平民道もキリスト教も抑圧されていく。「国家の理想」を昭和十二年に書いて東大を追放された矢内原忠雄は、岩波茂雄の義挙に応じて十三年に『武士道』の改訳を出版し、続いて『余の尊敬する人物』上下を出し、リンカーンと新渡戸を一書に共存させた。さらに戦線が中国に延びる時代に、医療宣教師英国人クリスティの『奉天三十年』上下の訳を出して世に問うた。矢内原の生活を陰で支えたのが『武士道』の改訳に続く昭和十三年の出版物であった。この年、新渡戸を祖父的存在と書いている前田(後の神谷)美恵子が、ギリシャ語からマルクス・アウレリウスの『自省録』を訳出して出版し、二千年前のローマの賢王の書いた西欧版武士道を日本に初めて紹介した。彼女は訳書の扉に、神谷が私事していた新渡戸の弟子三谷隆正に捧ぐ、と書いた。この神谷こそ十二のとき、ジュネーブで新渡戸から帰国に際して直に『武士道』のフランス語訳を贈られている。その本の扉に新渡戸の署名が書き込まれていた。 太田愛人 : 著 : 「新渡戸稲造『武士道』の根と花」 : 文芸別冊「武士道入門」 : 河出書房新社 新渡戸稲造の5000円札が2004年11月1日で樋口一葉の新札に変わった。新渡戸稲造は明治時代に、明治政府になって国際社会に飛び込んだ日本のことを世界の多くの人々に知らせる名著「武士道」を著した。戦費の足りなかった日露戦争で、欧米人の間での心情的な日本に対する応援と実質的な金銭的な応援や、講和の交渉に大変貢献した。
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