田中小実昌の祈り

生も死もイエスとア−メン

 死んだらどうなるのだろう。いや、どうにもならないのか。だから、死ぬのがこわい。死んだら、ただブランクで、どうとかなるものではなく、なんにもなくなってしまうのか。なんにもなくなるというのは、おそろしいことではないか。
 ただ、なんにもなくなったブランクの自分を見てる目もない。ブランクになっちまったと意識してる意識もない。こわいというのは意識だから、意識がなければこわいってこともあるまい。だから、死がこわいのは生きているあいだだけのことで、死んじまえば、こわいもこわくないも、なんにもない。でも、そんなのがこわいんだなあ。またまた、くりかえしか。
  ぼくの父は自分たちでつくった、どこのプロテスタントの宗派にも属さない教会の牧師だった。父はアーメンとイエスだけの男で、それも、アーメンとイエスを自分が信じつづけたというのではなく、アーメンとイエスにまるっきりうちくだかれていた。
 そんな父には、生も死も、それこそアーメンとイエスのままだった。だから、いかに平静に死にのぞむとか、心の平安を得るなんてことはどうでもよかった。
 ふつう、宗教はココロの問題とされているが、宗教はココロの問題ではない。宗教は人のココロや気持ちの問題ではなく、神のことだ。ないしは神とのかかわりのことだとされている。これも、神が人にかかわってくるのだろう。
 それがかんじんで、しかも、ただそれだけのことであり、きよらかなココロなんてのは、イエスには関係ない。
 きよらかなココロは、わるいことではない。また、平静な気分で死にのぞむというのは、たいへんいいことだろう。本人にもいいし、まわりの者もたすかる。だが、それは、それこそ精神修養みたいなことで、宗教とはまるっきり関係がない。
 教会にいき、賛美歌をうたい、きよらかな気分になるのは、まことにけっこうなことだが、イエスとは関係ない。
 人生いかに生くべきかということは、だいじなことかもしれないが、そんなことは、イエスはかたってはいない。
 おなじように、死にたいする覚悟みたいなことも、これっぽっちも言っていない。死んだら天国にいけるかどうかなんてことも、どうだっていい。
 とにかく、アーメンとイエスとイエスの十字架がつきあげてくる。イエスの十字架の死によって、ぼくたちのもろもろの罪がきれいに帳消しにされた。それを信ずる者は、あとは罪のない、きよらかな生涯を送り、安らかに死んで、天国にいける、なんてそんな調子よくいけるものだろうか。
 アーメンにうちくだかれて、はじめて、アーメンにさからっていた自分がわかる。罪とはそういうことだろう。イエスの十字架によって、きたない自分がさらけだされる。それでももったいなく、アーメンができて、ところが、まださからっており、しかし、またまたアーメンにうちくだかれる。
 一度とか二度とか、回数でかぞえられることではない。ずっとつづいて、つらぬいて、アーメンはせまってくる。どうやって死ぬ覚悟をしようか、なんて考えてるヒマはない。天国にいけるかどうか、天国にいくためには、この地上でどんな徳をつめばいいかなど、まことに悠長な、浮世ばなれならぬ、天国ばなれをした考えだろう。でも、天国は雲の上にあるのではなく、この世にこそ天国はあるというのもウソッぽい。天国とか地獄とか、そういうことを、ボタモチかなんかみたいに考えるのが、そもそも天国ばなれなのだろう。
 イエスが神の国をたずさえて迫りいたもう、と父は言った。イエスが神の国をたずさえてここにきているのだ。イエスが神の国なのだろう。そのイエスが十字架にかかった。そのあたりの理屈はわからない。ただ、それがアーメンなのだろう。
 死にたいする気持ちの整理、いかにおだやかに、またいさぎよく死にのぞむかということも、父にはなかった。いまがアーメンならば、観念的な永遠の命なんて、父はどうでもよかったのではないか。
 壮烈な死にかたなんかも、つまらない。どんなにりっぱに生きて、りっぱに死んだって、つまらない。永遠の命というのは、この生が永遠につづくということではなくて、ぜんぜんべつの生のことなのだろう。み霊とアーメンの生で、それも、アーメンによって生かされているニンゲンの生ではなく、アーメンそのものが生きているのではないか。
 父はそんなふうだった。ぼくにはわからない。でも、わかる、わかないも、これまたアーメンにはカンケイあるまい。わからなくてもアーメン、地獄でもアーメンかな。

田中小実昌 : 著 (大庭萱朗 訳) : 「田中小実昌エッセイ・コレクション@」 : ちくま文庫

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