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青木十良の祈り
チェロに情熱生涯現役
私は一九一五年(大正四年)生まれ。チェロ奏者なのだが、八十歳を超えてから一層、仕事への意欲が高まり、バッハの「無伴奏チェロ組曲」を録音し始めた。三年前に六番のCDを出し、今年は五番(カザルス編曲「鳥の歌」も収録)を出した。
コンサ−トに出演
コンサートにも出演している。二十世紀最大のチェリストとされるカザルスは、九十四歳まで演奏会を行った。私も彼の年齢まで弾き続けることができるだろうか。
大正期、貿易商だった父が関東大震災後に建てた東京・大森の家が、子供時代の美しい思い出だ。欧風の石造りの建物で、家の中でも靴をはく生活。父の仕事相手だったドイツ人が家に絶えず出入りした。土曜には彼らや親せきたちのために、蓄音機でのコンサートが開かれていた。
十人兄弟の末っ子である私の仕事は毎朝、蓄音機を回すこと。兄は、弟やいとこたちの前でバイロンの詩を朗読した。大正期、海外と取引のあった商家は、欧州の文化や精神をとても大切にしていた。実際、西洋音楽が生まれた欧州の石の空間を思わせる音響の良い家で、私は自然にピアノや和声法を姉から習い始めた。七、八歳のころだ。しかし父母が相次いで死亡。遺産争いで家族は離散し、中学に入ると私は生活費を自分で賄った。
十五歳のころだった。初来日したシゲティの公演を聴きに行き、ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」と「クロイツェル」でも、まばゆいばかりの輝かしい音色に打ちのめされた。弦の魅力にとりつかれた瞬間だった。「あんな音を出してみたい。あんな演奏ができる人間になりたい」。そのころにチェロを始めた。ドイツの名教師といわれたクレンゲルの弟子にあたる、フィッシャーが商人として家に出入りしていて、手ほどきを受けたのだ。
山田先生から一声
第二次大戦中は軍関係の工場に精密機械を納める研究所を経営した。音楽に割ける時間はなくなったが、東宝交響楽団の樺太への慰問演奏にエキストラとして参加した。指揮は作曲家の山田耕作。エキストラだから私はオーケストラの一番後ろにいる。なのに、帰りの船で山田先生に声をかけられた。「日本では、いい音楽はなかなか認めてもらえないよ」
ご自身の苦労のことをおっしゃったのだろう。しかし、一番後ろにいた私をなぜ気にかけて下さったのか。その理由は、かなり後になって分る。私の奏法は、日本の一般的な弦楽奏者のそれと違っていたのだ。
終戦直前、仕事の部品を載せた船が瀬戸内海で沈んだ。研究所は倒産し、私に残されたのはチェロだけとなった。偶然の縁でNHKに嘱託として入局。三十歳を前にして初めてチェロを仕事とし、ラジオ番組などで月に数回、ソリストとして演奏するようになった。
でも、すぐに悩み始める。私はどんなに強い音を出す場合でも、弓を力任せに弦に押しつけたりはしない。ドイツの先生からそう習ったのだが、日本ではもっと強い音を使う奏法が教育されていたようだ。思い余って五四年、フランスから名チェロ奏者のフルニエが来日した時、アドバイスを求めた。すると彼は私の奏法が正しいと言う。
私の奏法は一見、爆発的な音が出ないようだが、遠くまで音が通るらしい。だから山田先生は、私の音が耳に入ったのだろう。それに、筋力に頼らない奏法だからこそ、九十歳を超える今も、弾き続けられる。
作曲家の心を理解
人間は呼吸する生き物だ。楽譜にも、作曲家の呼吸が反映されている。その息づかいに合せて演奏すべきだと、私は思う。作曲家の心理の探求も欠かせない。私は七十--八十代に入って、ようやくバッハの呼吸や心がつかめるようになった。
バッハの精神は、他の作曲家に類を見ないほど多彩だ。神の心と、民衆の心の両方が描かれている。泥の中をのたうつ苦しみも、天に昇る救いもある。私はずいぶんと人間の暗い面を見てきた。幼いころに醜く財産を奪い合う大人を見た。金や人間関係のトラブルも抱えた。うつ病に悩んだ時期もある。しかしある時点から、辛苦を通り抜けて楽天的になった。
そんな私だから、バッハを弾けるのではないかと思える。また録音するなら、バッハの時代のような、そして私の子供時代の家のような石造りの建物がいい。五番の録音では幸い、日本で良い空間を見つけられた。次の録音は、本当に欧州に出かけ、教会でやってみたいと、野望を抱いている。
青木十良 : 著 : チェロに情熱 生涯現役 : 2006年8月23日 日本経済新聞統合版
青木十良氏の代表的CD : バッハ「無伴奏チェロ組曲第5番」、カザルス編「鳥の歌」 : Fine Nf-classic NF20302
バッハ「無伴奏チェロ組曲第6番」 : Fine Nf-classic NF20301
ベートーヴェン「チェロソナタ第2、3、4番」 アートユニオン TYMK-008
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