|
阪田 寛夫の祈り
幾千万の母たちの
幾千万のむすこらが、
たがいに恐れ、憎みあい、
ただわけもなく 殺しあう、
戦いの真昼、
太陽もなまぐさく。
風吹きぬける焼け跡に、
幾千万の母たちは、
帰らぬ子らの足音を
いつもむなしく 待っていた。
戦いの日暮、
まっかな陽が沈む。
むなしく裂けた天の下、
焼けてただれた樫の木が、
それでも青い芽をふいて、
神のめぐみを あかしした、
戦いはとだえ、
夜明けは近づいた。
幾千万の母と子の
こころに合わせいまいのる。
自分の中の敵だけを
おそれるものと なるように、
戦いよ、終われ、
太陽もよみがえれ。
日本基督教団出版局 : 「賛美歌21」より 372番
戦争中、三人きょうだいの私の家では、兄も、姉の連れ合いも、兵隊にとられて外地にいました。私も、中国に送られました。1946年夏、博多に復員船が着いて、空襲の焼け跡を通って大阪の家に帰ると、みんなが無事だったことが分かりました。
ところが、嫂(あによめ)の実家は違いました。男三人、女五人という子福者の家庭でしたが、男が三人とも戦死、戦病死していたのです。
岳父の家は、戦争中に不幸が相次ぎました。先ず二人の娘を結核で亡くしました。その矢先に、次男が、中国奥地で戦死します。敗戦時には長男を戦病死で失い、フィリピンに送られた三男だけが、消息不明でしたが、その後正式の戦死の公報が届きました。
私が「戦いの祈り」を主題とする作詞依頼を受けたのは、それから20年後です。もっと悲惨な例も少なくないでしょうが、以上が私の思い出した、かつては賑やかだった身近な家庭が、戦争から受けた傷あとです。
いい調子で自分にかまけていた当時の自分は、賛美歌依頼のお蔭でまた、中国から日本に帰った日の驚きも思い出しました。焼け跡の街の一画に、野天で食物・古着を売り買う人、物の匂い、駆けぬけるはだしの孤児たち。まるでそれまでいた中国の、廃墟の街かどそっくりでした。復員したばかりの私の感想はそこどまりでしたが、あの時の中国でも、街頭の喧騒から離れた、寒々とした泥の家に中には、やはり子供や身内を戦争で亡くしたもっと多くの母たち父たちが、悲しみをかかえてしゃがみこんでいる筈なのでした。
「幾千万の母たちの」という、悲しみと祈りの歌詞を、私はこれらの人々から与えられました。
日本キリスト教団出版局 : 「信徒の友」(1997年10月号) :
賛美歌のことなど19 :
阪田 寛夫 : 幾千万の母たちの (一部省略) より
戻る
|