ストイコビッチの祈り
さらば、ストイコビッチ
14日のホーム最終戦。自らVゴールを決めた後の場内一周では相手チーム、サンフレッチェ広島のゴール裏からもピクシーコールが鳴りやまなかった。
人前で涙を見せることを何より恥じるセルビア人でありながら彼は込み上げるものを我慢し切れずに幾度もタオルで顔を覆った。
名古屋グランパスエイトの「ピクシー」ことドラガン・ストイコビッチが、21日の試合を最後に引退する。
1994年から2001年までの7年間。くしくもワールドカップ(W杯)が開かれる前年まで彼が日本でプレーしてくれたことにフットボールの神の意志を感じずにはいられない。
妖精ピクシーがプレーを通じてサッカーをスポーツ文化として我が国に定着させた功績は計りしれない。
思い起こせば93年に広告代理店主導で幕が開いた当時の金満Jリーグは欧州や南米の盛りの過ぎたビッグネームの天下り先のような様相を呈していた。当然ながら、メディアに演出された日本人のトリックスターも幾人か作られた。
ストイコビッチはそんなJリーグバブル華やかなりし頃に来日し、最下位のクラブで6番目の外国人選手としてスタートを切った。
高額な年俸と几帳面にオーガナイズされたJリーグの環境は一見煌びやかだったが、土台を作らずして表面だけを模した脆さがあった。
案の定、日本経済の停滞とともに観客動員数も減少。「地域密着」という立派な理念とは裏腹に親会社の経営不信で選手、サポーターには内密のまま消滅を一方的に宣言された横浜フリューゲルスのような事件まで飛び出した。
ストイコビッチはまるでそういった時流に抗うように真価を発揮しJリーグナンバー1プレーヤーとして輝いていった。
相手マーカーの重心を見極めて瞬時に置き去りにする鋭利な切り返し、ゴールキーパーを地に這わす絶妙のフェイント、フィールド上空から俯瞰して見ているかのようなツボを押さえた位置取り、そして試合の急所を突くピンポイントのパス。
何が一体「本物」であるのか。寡黙な男はプレーで自らの存在を認めさせ、同時にサッカーとはいかに創造性に溢れた美しいスポーツであるのか、その素晴らしさを日本人に向けて全身から発信していった。事実、ストイコビッチフリークにはそれまでフットボール観戦には無縁だったオペラファン、クラシック愛好家、フィギュアスケートやモダンバレエの指導者などが多数いる。彼ら、彼女らは口を揃え、華麗さのみならず勝利に直結させるそのプレーの素晴らしさを「アートだ」と言い切る。
95年に「アンダーグラウンド」でカンヌ映画祭グランプリを受賞したユーゴ人映画監督エミール・クストリッツァは「ピクシーのフェイントの美しさはほとんどのユーゴ映画よりも価値がある」と看破した。
また、日本でここまで愛された理由はプレーヤーとしてだけではない。
「私のサッカー人生は決して平坦ではなかった」。ホーム最終戦での挨拶で自らが語ったようにストイコビッチの現役生活は政治という荒波に揉まれまくった。イタリアW杯で衝撃の鮮烈デビューを果たしたのが90年。それはまた同時に祖国ユーゴスラビアの崩壊が始まった年でもあった。
それが遠因となり、国連が課したスポーツ制裁によって92年から4年半に渡って国際大会への出場権を抹消されたのだ。いかに才能があろうともその存在をアピールすることができない。その苦しさを知るがゆえに来日当初は日本人Jリーガーの勝利への淡白さが我慢できなかった。「サッカーができる歓びを知るべきだ。日本は恵まれている。だからこそもっと真摯に、サッカーにすべてをかけるべきだ。
サポーターはよく見ている。幾度も絶望の淵に追いやられる度に復活してきたストイコビッチの人間としての強さにまた惹かれるのだ。私はインタビューの中でいつも奥深い知性を感じていた。
ある時、ピクシーの将来の夢は?と何げなく聞いたら「世界から戦争が無くなること。核兵器の代わりにサッカーボールを量産させること」と答えた。
世界屈指の技術、そしてスポーツと平和を愛する素晴らしい人格を併せ持ったストイコビッチが残してくれた遺産は計り知れない。
サッカーの神は紛れもなく親日家だった。
木村 元彦(ノンフィクション作家) : 朝日新聞 : 2001年7月20日 : 朝刊
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