矢野顕子の祈り

NYで歌う希望と夢

 九月十一日、午前八時五十分ごろ、娘と一緒に朝ご飯を食べていると、突然、救急車や消防車がダーッと走って外の様子がおかしくなった。窓から顔を出して南の方角を見たら、ちょうどビルに二機目の飛行機が突っ込んだところだった。
 私は一九九〇年の春からニューヨークに住んでいる。アパートは世界貿易センタービルから北へ1・5キロほどしか離れていない。
 ミュージシャンの娘(21)はレコーディングのため、その日の午後の便で日本に帰る予定だった。ラジオ「橋もトンネルも封鎖された。マンハッタンからは出られない」と伝えた。あきらめて娘と一緒にビルが崩れるまでの一部始終を見ていた。
 ビルの中で小さい爆発が起き、その都度火が広がった。私も娘も体が震えてくるのを止められなくなっていた。その後、一棟目のビルが崩れ始めた。
 近くのスタジオにいた主人(ミュージシャンの坂本龍一)は「ズーンという大きな音がした」と言う。主人はビルの様子を写真に撮っていたが、私は頭が真っ白になってしまった。ただ近所の人と抱き合って泣いた。煙で目が痛くなり、マスクで口を覆った。家の近くは停電し電話も不通となった。灰まみれになった消防士が、ひざを抱えて座り込んでいた。
 デトロイトで航空会社の客室乗務員をしている息子(26)からは携帯電話に連絡があった。当日もフライトの予定だったが、全米の空港が閉鎖された。
 その後も会社から連絡がないので、息子はフライトはないと思っていた。数日後に別の用事で空港に行ったら、仲間が「何してる。セントルイス行きに君の名前が載っているぞ」と言われた。彼が乗らないと離陸できなかったそうで、乗員・乗客全員で二時間も待っていた。息子が現れたとき、拍手が起きたという。
 息子は「次に飛ぶのが怖い」と言っていたが、航空会社のリストラで「首になる方が怖い」ともいう。フライトではワインオープンナーも持てなくなったそうだが、「お客さんが言うことを聞いてくれるので楽になった」とも話していた。
 彼のことは心配していない。というより母親として「自分の息子はテロに遭わない」と信じたい。でも本人には「自分の命を犠牲にしてでもお客さんを守りなさい」と言ってある。
 ビルが崩壊して、当たり前の物が無くなった喪失感がある。親を無くしたときのような気持ちだ。いつも仕事が終わって帰ってくると、ツインビルとお話していた。地下鉄を降り、地上に出ると、まずツインビルを探して、その方向を南と判断して街を歩いていた。
 崩壊の瞬間、ビルが煙の中に消えていった。これは手品みたいなものかもしれない。煙が無くなれば元通りの姿に戻るんじゃないか。そんなイメージが三日ぐらい抜けなかった。「振り向けばビルがあるんじゃないか」と思えて、何度も後ろを振り返った。
 米国人として生まれ育った人と、私のような移民とは当然、事件の受けとめ方が違う。友人のなかでも何であの人がという人まで「にわか愛国主義者」になって、「君はテロをどう思う」と聞いてくる。
 私はビルに愛着を感じており、それがたくさんの人を道連れにして壊されたということに対し、悲しみや怒りを感じる。でも、米国人が言うように国家の威信が傷つけられたとは思わない。東京タワーがテロで爆破されたとしても、日の丸を持って「日本は神の国だ」と叫ぼうとは思わない。
 四月から次のアルバムに取り掛かっている。当初、テロ翌日に歌を入れる予定だった。しかし家の周辺の道路が封鎖され、地下鉄も動かなかったので、ミッドタウンにあるスタジオに行くのは不可能だった。それ以前に、とても歌おうという気になれなかった。
 何日かたって、ようやく地下鉄が開通しスタジオに入った。仕事を始めるとテロのことは不思議と頭の中から消えていった。でも、地下鉄に乗って家に帰ると、煙とにおいでシューンとなってしまう毎日が続いた。全米では今、炭疽(たんそ)菌感染が市民に大変な不安を与えている。主人は先日、インターネットで防毒マスクを注文した。
 テロの目的は身体的ダメージもさることながら、人々に心理的な恐怖感をあたえることにあると思う。私は力には力で、負けないよと示すのではなく、余計な恐れを持たないことが大切だとと思う。
世の中には恐れよりもっと大切なものがある。人を思いやることや、人に愛を示すことで恐れは克服できると思う。
 悲しい歌を書いて、人を泣かせるのは簡単だ。でも、人を鼓舞し、人の心を楽しくさせるのは難しい。本当にみんなが欲しているはそんな「希望」であり「夢」なんだと痛切に思う。米国人には「ゴッド・ブレス・アメリカ」かもしれないが、私なりの表現でみんなを勇気づけたい。

矢野顕子(やのあきこ=歌手) : 日本経済新聞 : 2001年10月26日 : 朝刊 : 文化

2001年9月11日アメリカのニューヨークの国際貿易センターのツインビル及びワシントンのアメリカ国防省にテロリストに乗っ取られた民間の旅客機が追突し、さらに同様にテロリストに乗っ取られた民間旅客機がピッツバーグ郊外に墜落した「同時多発テロ」について、世界的音楽家の坂本龍一氏の妻であり、ご本人も音楽家でニューヨークを拠点に活躍中の矢野顕子さんの気持ちと祈り、決意を表したもの。

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