ディートリヒ・ボンヘファーの祈り

クリスマスを祝う

 私たちのうちのいったい誰が、クリスマスを適切に祝うのでしょうか?
 それは、ようやくにしてあらゆる権力、あらゆる体面、あらゆる名声、
あらゆる虚栄、あらゆる高慢、あらゆる頑なさを
飼い葉桶のかたわらで捨て去る人たちです。
 それはまた、身分の低い者たちに味方し、
神のみを高くあらしめる人たちであり、
 飼い葉桶の中のおさなごの、まさに卑賤そのものの中に
神の栄光をさとる人たちであり、
 マリアとともに次のように唄う人たちです、
《このはした女の卑しきをも顧みたまえば、
わが心、主を崇め、
わが霊は、わが救い主なる神を喜びまつる》と。


神の力

 《力ある神》--と、みどりごは呼ばれています。
飼い葉桶の中のみどりごは、まさに神以外のなにものでもありません。
 《神がひとりのみどりごになりたもうた》--
これ以上にすばらしいことが言われたことはありません。
 飼い葉桶の中のこのみどりごは、私たちと同じく貧しく、
私たちと同じくみじめで途方に暮れ、
私たちと同じく血の通った生身の人間であり、私たちの兄弟なのです。
 それでもなおかつ、このみどりごは神であり、力なのです。
どこが神なのでしょうか、
このみどりごのどこに、そんな力があるのでしょうか?
 このみどりごが私たちと等しいものとなった神の愛の中、
その中にこそ、それはあるのです。
 飼い葉桶の中のみどりごの悲惨な状態こそがみどりごの力なのです。
この愛の力において
このみどりごは神と人間のあいだの隔たりを乗り越えたもうのです。


マリーア・フォン・ヴェーデマイアーへの最後の手紙の中の詩

善なる天の諸力(ちから)に、かわることなくひそかに囲まれ
こよなき庇護と慰めをうけつつ、--
この日々をば、汝らとともにながらえ
ともに、新たなる年へと歩みゆかん。

旧き年は、なおもわれらが胸をさいなみ
いまわしき日々の苦渋は、澱(おり)のごとく沈みたれど、
ああ主よ、不意を打たれて怖じまどう魂に
救いをたれたまえ、そがために汝、
    われらをつくりたまいしに。

しかし汝、にがき苦悩のあふれんばかりに満たされし、
苛酷なるさかずきをさしいださんとも、
われら臆せず、感謝しつつ
義なる、汝が慕わしき御手より、そをば受けん。

されど、いまいちど現し世の愉しみと
夏のさかりのきらめきをわれらに恵みたまわば、
つかのまに過ぎしものをば、新たに心に刻み、
遺されし齢をことごとく、汝にゆだねまつらん。

暗やみにもたらされし、この燭台の灯を
今日ばかりは、あたたかく煌煌とかがやかしめ、
望むべくんば、われらをまたひとつに結ばしめたまえ!
汝が光、闇にありても耀けるをわれら知りたればなり。

深きしじま、いまや四囲をつつまんとするとき、
目には見えねど、われらをおおいし世界の
かの力づよき楽の響きに、
    われらが耳をかたむけさせたまえ、
神の子らみなの歌える、けだかき賛美のうたごえに。

善なる天の諸力に、こよなく護られたれば
いかな事態の襲いきたらんとも、
   われら従容としてそをば待たん。
ゆうべに、あしたに、しかし紛うかたなく
    いかな新しき日々にも、
神、われらがかたえに在せばなり。

ディートリヒ・ボンヘファー : 著 : クリスマスの奇跡 : 新教出版社

(ディートリヒ・ボンヘファー:1906年生まれ、ドイツ人牧師、キリスト者として、当時のドイツの教会の多くがナチスに協力したのに対して、ヒトラーのナチスに抵抗運動を行った。反ナチス運動で逮捕されてからも、獄中から多くの書簡を書きその言葉は現代の私たちにも良心に生きることとは如何なる事かを問うている。1945年4月9日ヒトラー暗殺計画に荷担した容疑でナチスドイツによりフロッセンビュルク強制収容所で処刑された。)

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