ディートリヒ・ボンヘファーの祈りU

他人の前でありのままであること

 人間が「恥ずかしい」と思うようになるのは、人間が自分の分裂を知るときである。世界全体の分裂について、あるいはまた自分自身の内部の分裂について知るときである。「恥ずかしい」と思うようになるのは、相手をもはや神の賜物としてありのままに受け入れようとしない時である。あるいは相手のありのままの姿に満足できずに相手に無理なことを要求する時であり、また相手に対して<私と結びつくことで不満を感じているのではないか、それゆえ私に無理なことを要求してくるのではないか>と思うときである。恥とは、私と相手の悪のゆえに、すなわちわれわれの間に入ってきた分裂のゆえに、私自身を相手の前で隠すということである。一方が他方を、神が与えた助け手として受け入れるところでは、人間は恥じることがない。その助け手の前で自分が「相手から出た者」であり、「相手へと向かう者」であり、しかも自分が「相手に属する者」であるという理解に立つなら、人間は恥じることがない。お互いに相手に対して従順であるところでは、人間は人間の前で裸であり、おおいなしであり、肉体としてまた精神として赤裸々である。そしてそのことを決して恥ずかしいとは思わないのである。矛盾した世界において初めて恥が生じる。

ボンヘッファー著 : 「主のよき力に守られて---ボンヘッファー1日1章」 : 新教出版社

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