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私の祈り8
父の死
父が2005年12月4日に亡くなった。闘病、入院生活に入ってから1年以上経ってのことだった。突然動けなくなって、救急車で病院に搬入されてから1月に1〜2回高速道路を使って奥羽山脈を越えて仙台から山形に通った。入院当初は今にも命が危なさそうで、去年の桜は見ることが出来ないと思っていた。しかし、2つの病院の先生方、そしてスタッフの方々の懸命のご努力で1年以上生きることが出来た。父を診て下さった先生方、それにスタッフの方々にはただ「感謝」の言葉しかない。また去年も、今シーズンも雪が異常に多く降り、1人暮らしの母の生活も心配だったが、実家の近所の方々や隣組の方々、そして親戚の皆様のご厚情のお蔭で、母も何とか試練を超えることが出来た。近所の方々や、隣組の皆さんは、雪に埋もれた実家の雪片付けを自主的にご好意でやってくださった。また、葬儀やその後の後始末にまた1人暮らしの母の様子見に親戚の方々には本当にお世話になった。また、父の菩提寺である浄土真宗の願善寺の方々にも大変お世話になった。雪がとても多かったために、納骨は今年の5月の3日になった。葬儀のとき、私は実家を離れて30数年も経っていたので、実家の土地の慣わしが全く分らなかったが、隣組の皆様や親戚の皆さんにほとんど全部をお任せすることが出来た。仙台という田舎ではあるが地方都市に住む私にとっては、隣組や親戚の存在の大きさに感動するくらい本当に何から何までお世話になった。地方にはこの隣組や親戚がしっかりしていれば、とても安心して生活できることが分った。都会生活で人間関係が希薄であれば、今回の父の葬儀のようなことが起こった場合に、苦労することがあるかもしれない。それでも、高齢者が増えて、葬儀屋さんも増えているようなので、お金さえあればある程度の雑用は葬儀屋さんにお任せ出来るだろう。でも、田舎にはまだ人の血が通っている温かい人間関係が残っていることを今回の父の死によってはっきり分ることができた。
父は太平洋戦争に合計で7年以上も軍医として徴用された。始めは北支へ、後半はニューギニアへの徴兵であった。雪国の部隊が熱帯のニューギニアに行ったので後世舞台や映画で有名になる「南の島に雪が降る」のモデルにもなったらしい。当時の軍隊は支援路を持たず現地調達であったので、薬も消毒薬もきれいな水も無いところで医者として如何に困難さを覚えただろうか?ニューギニアでは奥地でホタルが集まって光の柱を作るところも目撃したらしい。また、食料も無く極楽鳥を食べた話をしてくれた。私のまだ子ども時代に父はよく寝ているときに苦しそうな声と表情を出していた。戦争中の悪夢でも見ていたのだろうか?私は医学生としては甚だ劣等生であったので、試験では大変苦労した。そのような時に、父はよく「戦争に7年もとられたことに比べたらなんでもない」と励ましてくれた。しかし、父は日本という国が戦争していたために徴用されたのであり、私の場合は単なる私が怠け者で不勉強の不心得者の自業自得であるのにそのように励ましてくれた。3人の子育てのため好きなこともせず、患者さんがいつ来るかわからないので休日も取らなかった。父が胎内にいるときに実の父親に事故で亡くなられたので、母親や長兄に育てられた。生い立ちや、軍隊生活の過酷さのためか少々変わり者であったので、他人によく誤解されてた。その分、母に苦労がかかることが多かった。また、私が父から学んだことはとても多い。今日の私が、医療をやっていける道を作ってくれたのは父である。母も、現在の私のあり方に随分影響を与えてくれた。これからも、実家の近所の方々や隣組の方々、親戚の皆様にお世話になることと思いますので、何卒よろしくお願い申し上げる次第である。
父の骨が納骨されているお墓の墓碑銘が「倶会一処」というのも、ありがたい御言葉である。
日本のよき伝統がいつまでも残されますように。弱きもの、力なきものが困難に会いません様にお守りください。1人びとりがその人らしく生きていける世の中が出来ますように・・・。
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