晴佐久昌英の祈りV

ようこそ

 歓待の世紀を始めよう。真心込めて人をもてなすことを最高の価値とする世界を始めよう。旅人に宿を貸し、難民を受け入れ、親を失しなった子どもたちの世話をし、居場所のない若者のよりどころとなり、身寄りのないお年寄りの介護をしよう。他者を、わが身に迎え入れること。それこそが、この野蛮な時代を終わらせて、遠い昔、われわれ人類がたしかにもっていた平和と秩序を取りもどす最良の方法なのだから。
 歓待。ホスピタリティ。おもてなし。それは単に他人にサービスを提供することではない。まして、相手を巧みに取り込んで自らへ同化させようという暴力でもない。それは、わが身を削って他者を迎え入れること。自分とは異なる世界を生きる他者と無条件にともにあること。それによって自らも他者に迎え入れられ、変容し「他者とともにあるわたし」という喜びを生きることである。
 人類は、この「歓待」がいかに尊く価値あるものであるかを、何万年もまえから知っていた。いつ自らが危険な旅行者となるかわからない古代社会では、互いにもてなし合う互助精神は互いのいのちの保障でもあり、不文律の美徳だったのである。今でも遊牧民の社会では、旅人の歓待は名誉ある慣習として固く守られているし、日本でも古きよき時代の面影を残す農村漁村へ行けば、地域共同体を体験したことのない都会人が感激するほどのもてなしを体験できるが、それは実は人としてごくあたりまえのことなのであり、助け合わなければ生きていけないようにつくられている人類の基本英知なのだといってもいい。
 アリストテレスは「歓待は富を用いる最も良い方法である」と言い、プラトンは「歓待こそ聖なる義務」と説き、カントは永久平和のための市民法として「地球的規模での普遍的歓待」という概念を唱えた。歓待は、世界を救う。たしかに、国家という野蛮なシステムを浄化していくには、所有するのではなく贈り合い、排除するのではなく受容し合う道しかありえず、すなわち、今この星に必要なのは「歓待」なのである。
 そう考えると、究極の歓待を実現したイエス・キリストの現代における意味がいっそう明らかになる。イエスは、常に人びとを分け隔てなく歓待していた。その周囲にはいつも、もてなされた人びとの群れがあった。身も心も飢えていた人。罪びととして軽蔑されていた徴税人や娼婦。排除されていた病者や障害者。差別されていた異邦人。彼らは、「あなたをあなたのまま受け入れる」というイエスの歓待に包まれて、どれほどいやされたことだろう。その歓待の極みとして、最後には、すべての人の罪をわが身に迎え入れていのちをささげたイエス。つまり、十字架とは、このわたしへのもてなしであり、それはすなわち、神がわたしたちを歓待しているということなのである。神の歓待。これこそが、わたしがあなたを歓待する真の動機であり、人類を真に生かす力である。
 わたしたちはもとより「地上では旅人」であり「天を目指す巡礼者」である。互いにもてなし合うように天に定められた旅の仲間なのだ。しかし、もしその仲間が本当に歓待し合うならば、それは、このわたしはこの星のどこに行っても歓待されるということでもある。なんという安心。なんという自由!
 「ようこそ」と言い合おう。「よくいらっしゃいました」「お会いできてうれしいです」「さ、どうぞ中へ」といい続けよう。あなたもまた、「ようこそ」と、この星から歓待されて生まれてきたのである。

晴佐久昌英 : 著 : 「生きるためのひとこと」 : 女子パウロ会

 私たちを現在の取り巻く状況は、社会福祉と医療の経費削減政策による社会福祉、医療の世界の荒廃だ。介護の必要な人びとへの救済はどんどん減らされ、医者はどんどん病院をやめ、また田舎や地方を離れていく異常な状態が行われている。これから、高齢化社会が進んでも、医療や介護を充分に受けられる人が少なくなっていくことが、今から危惧されている。介護保険のサーヴィスの低下により、今までより介護の認定度が低くなり、行き場を失った介護の必要な人びとが、その子どもたちが仕事をやめて親の面倒をみな蹴ればいけないということが増えている。これから、核家族化の高齢化が進んで、公的な介護も、家族からの介護も受けられない人びとの増加が増えることが危惧される。
実際、親や親族の面倒を見るために自分の仕事をやめなければいけないこと事態が、人びとの生活を脅かす脅威や不安につながっている。
 介護保険の次は、医療保険である。これから、医療保険を使って医療機関にかかることが困難になることも考がえらる。現に、保険を支払う保険の組合が医療機関に使用する薬剤を指定してきているところがある。安い薬剤を使用して、医療費を安くするためだ。また、企業と提携する医療機関の数も増えてきている。これらの医療機関は、企業と提携することによって患者さんの数の保障を得られるが、契約した企業の指定した医療内容の治療に限定され、薬も企業の指定した安い薬が使われる。しかも、契約ということで、公的保険では必要な医療費を100%保障されていたが、契約企業が90%とかしか医療費の保証を支払わない。これでは、医療機関の荒廃が進むことは必至である。医療従事者も、患者さんの診療に向かう気持ちがそがれてしまう。医療の現場も、今後ますます荒れてくるだろう。
 この晴佐久昌英神父の祈りに見られるよう、本来医療や介護や福祉は人の善意が必要である。医療や介護の現場での人心荒廃(働く人の首切りや医師の地方からの撤退がどんどん進んでいる)が、現在非常な勢いで進んでいる。これは、医学部の入学定員を増やすなどという付け焼刃的なことでは改善されるとは、とても思えない。問題の根本にある社会保障や医療福祉を、真剣に見直さないと、もう事態は益々悪い方向に向かうことは必然なのである。社会保障、医療福祉保障が瀕死の状態なのだ。
 晴佐久神父の説教には、力がある。毎年、晴佐久神父の教会で洗礼を受ける人びとの数は増えている。それだけ、実際に救いを求めている人びとの数は多いのだ。しかし、実際のキリスト教会には、排他的で新しく来た人をもてなさなかったり、充分な福音を伝えられないところが多い。救いを求めてキリスト教会にたどり着いた人びとでも、そのキリストの福音に接することができず、むなしく教会を後にすることが以下に多いことか。それらの救いを必要とする人たちには、現実に救いが得られるというまやかしの新興宗教が待っていることが多い。
 晴佐久神父の延べるような、本物のキリストの真実の福音に触れる人がもっと増えれば、救われる人はもっともっと増えるだろう。
 晴佐久神父が日曜のミサごとに人びとに語っている説教集は、このホームページの「おすすめの本」のなかに紹介してある。
 社会福祉や医療福祉が、この祈りのなかで述べられているような本来の正常な形になることを、心から希望する。
 もう日本の社会福祉、医療福祉は、今の時点で瀕死の状態にあるのだから・・・・。

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